「憎らしい相手」に対する怒り、復讐心から解放されない時、どうすればよいか?【沼田和也】
『牧師、閉鎖病棟に入る。』著者・小さな教会の牧師の知恵
ところで、寓話とは人間の現実を短くまとめたものだ。シンデレラがした赦しは、現実の人間が何年も、もしかしたら何十年もかけて行う赦し(赦しという言葉に抵抗がある読者には「受容」という言葉がよいかもしれない)の縮図である。話は聖書に戻るが、イエスが赦しについて弟子たちに伝えたとき、弟子たちがすぐに赦すことができるようになるとは想定していなかっただろう。むしろ、なんでもかんでもその場で笑って赦してしまうような軽薄な態度を、イエスは弟子たちに望んでいなかったはずだ。「だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」というイエスの言葉は、赦すことの大変さ、手放されることなく手元に残り続けるものの重さを物語っている。
昨今、断捨離やマインドフルネスのブームもあり、「手放す」という生き方が注目されている。それらの生き方自体は尊いことだとわたしも思う。ただ、「手放す」という言葉を、それこそ手放しに用いるのは危険である。先にも述べたとおり、人間は心に深く刻み込まれた痛み、その傷痕を、そう簡単に手放すことはできないからである。また、手放せばよいともわたしには思えない。手放せないということ、そのこと自体もまた、その人の大切な一部をなしているからである。
とはいえ、それでも、このように手放せないという現実を踏まえた上で、わたしは手放すこともまた、大切にしたいと思う。ただしそれは、今すぐそうするというのではなく、何年、何十年とかけて、気がついたら「あれ?いつのまにか手放せているぞ?」と、そんな手放しである。力技で手放そうとしても、それは怒りのエネルギーに逆らうことである。そんなことをすれば消耗も激しいし、いったん手放せたと思っても、怒りの逆流も起こりやすい。だったらいっそ、今は怒り、憎んでもぜんぜんかまわないではないか。こびりついた苦しい記憶から離れられず、深い絶望や悲しみ、憎しみに燃える自分を「まあいいや、レリゴーはまだまだ先だな」と眺める、もう一つの視点があればそれでじゅうぶんである。わたしやあなたがそうやっておのれ自身のことを見つめるとき、その視線は神と共にあると、わたしは思う。神だって怒るのだ。あなたと同じだ。
肩に力を入れて「赦そう!」と無理するのでもなく、怒りがこみあげるたびに、むしろ「おっ、順調にこだわっているね」くらいの気持ちでいること。わたしはそうやって、怒りや憎しみを赦しへと発酵させていっている途中である。怒りが美味しく発酵する日がくるのを、わたしは楽しみにしている。
文:沼田和也